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あこや真珠ネックレスは、真珠のなかの真珠。
冠婚葬祭や改まったパーティには欠かせないジュエリー。
きちんと管理していれば半永久的に使い続けられる♪


あこや真珠ネックレス


アコヤ真珠とはアコヤ貝を母貝として養殖され生産されている日本が世界に誇る代表的な真珠です。その乳白色に光る美しさは気品に溢れ、昔から世界中 の淑女たちを魅了し続けてます。三重、愛媛、長崎、大分、熊本などのきれいな海で養殖されています。また韓国でも少量生産されているようです。

【カラー】 ホワイトピンク系・シルバー系・クリーム系・ゴールド系・ブルー系があります。
【 形 】 ラウンド(まる)が多く、セミラウンド・セミバロック・バロックなど変形したものもあります。
【サイズ】 3~9mm:真珠の中では小ぶりです。
【用途】 ネックレスに利用されることが多い真珠です。

あこや真珠の評価はダイヤのような国際基準はありませんが、日本にはAAAA真珠評価システムという評価基準で一定の評価がなされています。照り、形、巻き、キズの各々について評価し総合評価を下します。
また総合評価の良い物を特に花珠の冠をつけ花珠本真珠と呼びます。鑑別書付きのものは一定基準をクリアした高品位の証でもあるのです。


花珠真珠ネックレス

あこや真珠ネックレス

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御木本 幸吉(みきもと こうきち)のこと

日本で真珠といえばミキモトパールが思い浮かびますが、真珠の養殖を日本初めて手がけ成功した御木本 幸吉(みきもと こうきち)とはいかなる人物でしたでしょうか。
今日は日本の真珠王御木本幸吉について少し紐解いてみましょう。

御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は、真珠の養殖とそのブランド化などで富を成したことで知られています。
御木本真珠店(現・ミキモト)創業者でもあります。真珠王とも呼ばれていました。


《御木本 幸吉(みきもと こうきち)系譜》
志摩国鳥羽浦の大里(現在の三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。
父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、
1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。
祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。
幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。
正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。

《その商才と向上心と社交性》
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。
大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。
足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。
また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。

《真珠に到る助走路》
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。
1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。
同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。
海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、
志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、
三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

《時代の転換期に》
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。
職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。
1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。
1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

《アコヤ貝の養殖》
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、
志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、
主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。
この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。
この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

《外国での養殖例》
中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。
仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、
貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。
また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。

日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、
課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

《養殖実験開始》
1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。
この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、
貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。
その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。

1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。

1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。
縁者の協力

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。

1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。
同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、
特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、
1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、猪野若造(猪野三平の子息)、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、
「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。
対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、
幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。

その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。
西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。
しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。


《出店の歩み》
    1899年(明治32年)、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する。
    1901年(明治34年)、東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する。
    1903年(明治36年)、東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出。市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転。
    1903年(明治36年)、市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする。
    1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。
    1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店開設。
    1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店。
    1929年(昭和4年)、パリ支店開設。
    1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店開設。
    1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設。

《特許取得》
1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。

「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、
これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、
生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)

この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。
この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。
裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、
御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。

1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。

「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し
適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。
(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)

なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。
また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。

《御木本幸吉が取得した主要な特許》
    半円真珠から真円真珠に到る特許
    特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
    アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
    1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。

《協力者》
1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。
養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。

志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。

四日市の万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。
藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、
宮内省御用達となる際の保証人になった。

他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。
エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。
土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。
その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。
量産体制

1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。
翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、
つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、
フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、
フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。
1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。
生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞。
一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を破壊した。
中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、そのことが油田開発を後押しした。

幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。
参考文献:ウィキペディア

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